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徒然なネ見点

http://www.geocities.jp/grid303


by yoshiaki sato
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多摩川スピードウェイの幻想

5年くらい前から冬のバイクウェアになっているモンベルのダウンジャケットは、小さな穴を瞬間接着剤で補修しながら今年も使っている。
去年、二子玉川を通ったときにモンベルのショップができていたので、代わりになるものはあるか見に行ってみた。

う~ん、価格がすいぶん上がっているにの、薄くなっている感じだな・・・。
このシーズンはやり過ごして、ダウンは来シーズンの課題にするかな。

多摩堤通りを丸子橋へ向かった。
キーンという寒さもひさしぶり。
旧巨人軍グラウンドの手間でワンショット。
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小学校に上がるか前だろうか・・・。
父親がよく連れてきてくれたものだった。
堤の坂には大勢の人が座って、巨人軍の練習を見ていた。
球場より、長嶋も王もそばで見ることができて、サインだってもらえるチャンスもあるのだから、少年たちにとっては多摩川園のスリラーショウと同じくらい盛り上がる場所だった。

河原を眺めながらそんなことを考えていて、そういえばちょうど対岸が「多摩川スピードウェイ」の跡であることを思い出した。
これは秋に撮った写真だけど、この段々がサーキットのスタンド跡だと知ったのは、つい10年くらい前の話だ。
高校生のときに運動会のトレーニングをしに来たときは、この段々に荷物を置いたり腰かけたりした記憶がある。
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自転車であちこち走り回っていた頃、よく多摩川のサイクリングコースも走っていて、なんでここだけこんな段々があるのだろうと不思議に思って調べたら、かつてここに「多摩川スピードウェイ」という国内屈指のサーキットがあったことを知った。
2016年には、80周年を記念してこのスタンド跡に碑が埋め込まれている。
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1936(昭和11)年に開設されて、1938年までに「全日本自動車競争大会」が4回開催されたらしい。
一周1200メートルのオーバルダートコースだ。
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日中戦争がはじまると、大っぴらにガソリンが使えなくなってレースは中止になり、戦後は進駐軍の基地で行われるレースが主流になっていったので、自動車レースが開催されることはなかったという。

1949(昭和24)年に「第1回モーターサイクル選手権」、翌年に第2回大会が開催されているが、この頃に騒音問題や土地利用の問題が起こってコースは消滅したらしい。

特筆すべきは、1936年の「第1回全日本自動車競走大会」に30歳の本田宗一郎氏が弟と一緒に「ハママツ号」で参加していることだ。
本田宗一郎が「本田技研」を創設したのは39歳のときであるが、「アート商会」がベースの「東海精機」を創設したのが、ちょうどその頃のこと。

フォードの4気筒エンジンを8バルブから16バルブに改造し、自作のスーパーチャージャーを搭載した浜松号は、時速120キロという圧倒的な速さでトップを走っていたらしい。
ご本人の回想によると、修理中のクルマが急に飛び出してきて衝突し、ハママツ号は3回転の大クラッシュ、本田さんは目あたりを4回も手術して後遺症が残ったという。

「自ら運転するクルマで参加し……」とする資料が多いのだが、回想禄によると当時の本田さんは自動車の免許をもっていなかったけど、レース用のクルマをつくるのが面白くて仕方なくなり、助手席に乗って数々のレースに参加したとあるから、このときも運転していたのは弟の弁二郎氏だったのかもしれない。
本田さんは全治2週間ですんだが、弁二郎氏は肋骨を4本折って脊髄を傷める全治3カ月の重傷だったようだ。

一説には、クラッシュ後にコース脇で流血している本田さんが、弟に「早く修理して走るぞ!」と言ったものの、弁二郎氏は「兄さん、だめだ、体が動かないよ」といって立ち上がることができず、そのうちに本田さんも倒れてふたりとも病院に運ばれたという。

本田さんはこのレースを、「ゴールはできなかったけど、あんまり速かったのでトロフィーをもらった、その記録は長い間破られなかった」と、ケガのことなど全く忘れて鼻高々に回想している。(笑
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この飛び出しているのが、本田さんだというのだから、目の後遺症だけすんだのは奇跡的かもしれない。

戦後すぐに本田技研を創設した本田さんは、ドリーム号やカブ号をヒットさせ、マン島TTに出場すると宣言したのが、1954(昭和29)年のことだった。
翌1955(昭和30)年には、公道を使用した第1回浅間高原レースが開催される。
社員も「マン島って何?」という状態からのスタートで、ワークスとして初出場にこぎつけたのが、1959(昭和34)年である。

このあたりから、『汚れた英雄』がリンクしてくる。
二輪のプライベーターとして世界制覇を狙うロベルト・ヴィアンキに招かれて渡米した北野昌夫が、参戦前の見学としてマン島TTレースを見に行くのが1959年、HONDAが初参戦した年で、昌夫たちはHONDA陣営を励ましに行く。
ジョン・サーティーズがトップライダーで、マイク・ヘイルウッドが19歳の新人として登場する。


「浅間サーキット」と同じく、「多摩川スピードウェイ」もその場に立ってみると、ゴーグルをつけたライダーがダートコースを疾走する排気音が聞こえてくるような気がする。
大勢の男たちがエンジンに人生をかけた情熱が、幻想となって砂ぼこりを舞い上げる。



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by grid303 | 2018-01-26 16:59 | Motorcycle | Comments(0)